福岡第一高校バスケ部所属の河村勇輝選手の生い立ちについてです。
彼は日本生まれですが、親の都合で幼少期はドイツで生活していました。帰国後にバスケを始めて、その面白さに熱中。
バスケ経験者の父親の協力もあり、小学6年生で全国優勝を果たしています。
目次
河村勇輝の生い立ち|幼少期のドイツ生活が性格に影響
河村選手は0歳〜3歳までをドイツで過ごしました。
山口県柳生市で誕生後すぐに、英語教諭の父・吉一さんの仕事の都合でドイツに渡ります。本人はドイツの街並みはまったく覚えてないそうですが、自宅ではホームパーティを開いて様々な国籍の人たちと接していました。
そのため、河村選手が誰とでもオープンに接することができるのはドイツでの経験が大きいと、父・吉一さんは語っています。
気付けばバスケットの虜に!NABのビデオ鑑賞が趣味
帰国後に柳生市の保育園に通いだすと、徒競走では常に1位。そして、父がバスケの経験者だったために、気づけばバスケットの虜になります。
小学1年生になると、自宅の庭にバスケットゴールを設置。日常的に父親と1対1の勝負をしたり、センタープレーを教えてもらうなど恵まれた環境で、バスケの英才教育を受けます。
ミニバスに入団したのは、小学2年生のときでした。
コートの隅で基礎練を積む毎日でしたが、すぐに出場機会を得ることに成功して小学4年生ではスタメンとして司令塔に抜擢。
当時のコーチ『プレーに独創性がありました。特にパスに関しては人にない感覚を持っていて、「そこに投げるか!?」と驚かされることが多々ありました。』
そして、練習から帰宅後には父のコレクションだったNBAのビデオを毎日のように鑑賞していました。マイケル・ジョーダンとマジック・ジョンソンなどのスター選手のビデオを擦り切れるまでみていたようです。
こうした習慣は小学6年生まで続きましたが、河村選手は現在でもyoutubeなどでプロ選手の動画をみていますね。
ミニバス時代の練習法|シューティング・ノルマは1日500本!
小学4年生の大会での悔しい敗戦をきっかけに、1日500本のシューティング・ノルマを課しました。庭のバスケゴールにもナイター照明を取り付けて、夜でも練習できるように環境を整備。
最初、敗戦の反省の意味で始めたものでしたが、試合でシュートが入るようになってから、ショーティング練習は日課になっていきました。テレビやゲームなどには一切興味を示さずに、食事の際にも利き手ではない左手で箸を使うなど、バスケに全てを費やす生活をしていました。
小学6年生になると、監督から信頼をされてゲームコントロールを任せられるようになっていました。県内で負けなしのまま、全国出場を獲得。「日本一になるために、日本一の練習をしよう」と父と話し合い、東京出発前の2日間で2000本のシューティングを実施。
全国大会で東京に乗り込むと、決勝戦進出。
決勝では、河村選手のバスケットカウントが決勝点となり、1点差で勝利するという劇的な幕切れだったそうです。
まとめ:父親との練習がミニバスで全国優勝までの道のりだった!
- バスケ経験者だった父・吉一さんと1対1での練習をしていた
- 父は、低学年のときから河村選手に小さな目標を与え続けていた
- 父のコレクションだったNBAのビデオを毎日のように視聴
- 小学4年生では毎日500本シューティングを日課とした
- 全国出場二日前には父と相談して、2000本のシューティングをこなした
今回は河村選手の生い立ちをまとめてきました。
河村選手が高校ナンバー1プレーヤーと言われるようになったのも、彼のバスケ愛があったからこそです。さらに父・吉一さんが家にバスケコートを買ったり、親子で練習を繰り返していました。
そうした家族からのバックアップがミニバスでの全国優勝につながったと思われます。
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